ブログパーツ ばるさん 「豊臣秀吉」の生涯を振り返る!(Ⅰ期)






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「豊臣秀吉」の生涯を振り返る!(Ⅰ期)

「秀吉戦記」の主役!「豊臣秀吉」

極めて低い身分からスタートし、天下人となりました。サクセスストーリーの主人公としては最適な人物です。
波乱に満ちた62年の生涯をⅠ~Ⅳ期に分けて振り返ってみます!

一通り ブログなり、本見たのですが、書いてる人によって内容もまちまちだったんで、大まかな流れがわかれば程度に、自分なりの解釈を軸に要点だけ掻い摘んで記載しております。

「独眼竜の野望」のように 史実を無視した超展開だったら簡便な!

今回はⅠ期です。

・・・・・・・・・・・・・・・・

 【Ⅰ期】 生誕~織田家仕官~美濃奪取まで。

Ⅰ期前半 誕生~織田家仕官。

1537年(01歳) 尾張中村にて生まれる。
1554年(17歳) 織田信長に小物として仕官。
1560年(23歳) 桶狭間の戦い
1561年(24歳) 浅野長勝の養女おね(高台院)と結婚。
1563年(26歳) 織田信長、松平家康と同盟を結ぶ(清洲同盟)→美濃侵攻を意識した同盟。


▸1537年~1553年 「出自」を含め、謎に包まれている少年時代。

秀吉の出自に関しては、父・木下弥右衛門は足軽(鉄砲足軽?)から農民、
さらにはその下の階級ではなかったかとも言われており、確定していないが、少なくとも下層階級の出身であった。
wikipedia「豊臣秀吉」より。

織田家に仕えるまでの経歴は、諸説入り乱れはっきりしたことはわかっていません。
のちに秀吉はいくつか自身の伝記を書かせていますが、それによっても素性なり、織田家仕官までの流れは異なっています。
つまり出自~少年時代については、本人からすれば黒歴史。語りたくはなかったようですね。

織田家仕官前に、今川家、松下嘉兵衛(之綱)の元で奉公していたのは、
後に恩を返すためか、幕下に組み入れているため明らかではあるようです。
wikipedia「松下之綱」では武芸・学問・兵法などを彼に教えたとみられる。とありますが、
素性のはっきりしない者をそこまでの待遇を与えるのはよほどなことですし、
その環境を捨てて出奔するとすれば不自然ですよね。優しい言葉を一言二言かけられた程度かもしれません。
何気ない優しさが印象に残るほど、凄惨な日々を過ごしたのでしょう。
この時期の苦々しい想いが天下人となりえたの原動力かもしれません。


▸1560年(23歳) 桶狭間の戦い

2万5千といわれる大軍を引き連れて尾張に侵攻した駿河の戦国大名である今川氏真・今川義元に対し、
尾張の大名・織田信長が10分の1程とも言われる軍勢で本陣を強襲し、今川義元を討ち取って今川軍を退却させた、
日本の歴史上最も華々しい逆転劇と言われる非常に有名な戦いである。
東海道に君臨した今川氏はこの戦いを契機に没落し、
逆に勝利した織田氏はこれ以降畿内の制圧に向かって急成長していったことで戦国時代の重要な転機となった。
wikipedia「桶狭間の戦い」より

「秀吉戦記」にて実装が予定されています。
織田家の命運を握る戦いで、戦国時代を通しても重要な合戦ではあるものの、資料上、秀吉の名はありません。
のちの天下人だけに参加していれば何かしら言及されると考えるのが自然です。
触れられていない点をみるに、この当時はまだまだ小間使い程度だったのでしょう。
戦闘に参加したのかさえ疑われます。

Ⅰ期前半は、織田家に仕官し始めたわずか数年という時期です。適切なダンジョンの候補がありません。
「桶狭間の戦い」は、「柴田勝家」「前田利家」「蜂須賀小六」辺りが参戦している。
「松下嘉兵衛」との邂逅 松平元康(若き日の家康)等、ゲームに取り込みやすいテーマではあります。
これといった「ダンジョン」の候補がなかったため、「秀吉」にゆかりのある人物が出揃う「桶狭間の戦い」を採用したのが真相でしょうか。

・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・

Ⅰ期後半 一級資料にも秀吉の名が出始めた時期。

1565年(28歳) 「木下藤吉郎秀吉」の名が書状などの史料で現れ始める。 「坪内文書」
1565年(28歳) 蜂須賀小六が木下藤吉郎の与力となる。
1566年(29歳) 墨俣一夜砦を築く。
1567年(30歳) 安藤守就、氏家ト全、稲葉一鉄の西美濃三人衆の誘降に成功。
1567年(30歳) 織田信長。斎藤龍興を破り、美濃を領する。
1567年(30歳) 竹中半兵衛が木下秀吉の与力になる。
1568年(31歳) 信長の上洛戦に従軍。


▸1565年(28歳) 「木下藤吉郎秀吉」の名が書状などの一級史料で確認され始める。

「坪内文書」永禄8(1565)年11月2日付で木下秀吉へ「知行充行状」が送られていることが確認されています。
この時期にはすでに、小物のような身分から引き上げられ、知行を拝領するような身分にあった事がわかります。

2年後である1567年には、織田信長が、斎藤龍興を敗走させ、美濃を織田領にしています。
同年「木下秀吉」は、稲葉山城乗っ取り事件で時の人であった「竹中半兵衛」を与力にすることを許されています。
高名な武将を与力につけることを許された背景には、墨俣砦の建設。西美濃三人衆の調略等の活動があり、
美濃侵攻に対しての役割は大きいと、織田信長から認められた証明と言えるのかもしれません。

この時期は武将というよりも、「調略家」としての活躍が目立ちます。急速な昇進を妬む同僚は多かったのでしょう。
特に血を流して功名を得るんだ!といった武断派からは理解されにくい存在であったはずです。
批判や妬みの声を撥ね退ける意味でも、武将としても実績を残したいところ。
そういった意味でも戦術・戦略に長けた「竹中半兵衛」の加入は大きかったのかもしれません。
Ⅱ期は、織田信長の上洛戦へ従軍するところからです。武将としても次第に名を馳せていきます。

Ⅱ期へ続く。


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[ 2011/12/21 01:18 ] 豊臣秀吉 | TB(0) | CM(0)

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