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「豊臣秀吉」の生涯を振り返る!(Ⅱ期ー②)

 【Ⅱ期ー②】 織田家急速な拡大に“ひずみ”が生じる。

1575年(38歳) 長篠の戦い(vs武田家)
1575年(38歳) 黒田(小寺)官兵衛との接近
1577年(40歳) 信貴山城の戦い(vs松永弾正)、手取川の戦い(vs上杉家)
1578年(41歳) 上杉謙信急死
1578年(41歳) 三木合戦(vs別所長治。兵糧攻め)開始
1578年(44歳) 荒木村重謀反 説得に赴いた黒田官兵衛を幽閉する。
1579年(45歳) 竹中半兵衛病死
1579年(45歳) 備前・美作を領有する宇喜多直家が織田家に降伏する。
1579年(45歳) 荒木村重逃亡。有岡城の戦い終結。
1579年(45歳) 織田信長、武田家と謀反の噂のあった松平信康に切腹を命じる。
1580年(45歳) 別所長治切腹。三木合戦終結。
1580年(46歳) 石山合戦(vs本願寺)終結。佐久間信盛、林秀貞追放される。

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▸ 黒田官兵衛との出会い。

黒田官兵衛は、播磨の一領主、小寺政職の家老職を務めている武将でした。
播磨国が、織田家と毛利家の勢力圏に挟まれると、
主君小寺家を含む、播磨の有力な領主を説得しまとめ上げ、織田家に仕えさせることをやってのけています。
その折に織田信長との取次したのが、羽柴秀吉でした。
秀吉に、「官兵衛がその気になれば、わしが生きている間にも天下を取るだろう」 
と言わしめた逸話が残るほどの武将ですが、そのような話は講談として好まれる題材だけに、脚色されてしまうものです。
噂が一人歩きして過剰な評価をされている面はあるやもですね。

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▸ 手取川の戦い

越中を平定した上杉謙信は、次なる一手として能登平定を目論見、侵攻を開始します。
これに対し、能登を領する畠山家の重臣「長続連」は七尾城に籠城し、織田信長に救援を求めた。
信長は援軍を承諾し、柴田勝家を総大将とする先発隊を向かわせ、自らも軍勢を率いて出陣しました。

・・・・・・が、援軍到着前に七尾城は落城してしまいます。

七尾城落城を知らないまま進軍する柴田勝家の接近を察知した謙信は、直ちに追撃を開始する。
ようやく落城を知った柴田勝家隊は撤退中で士気も上がらないまま追撃を受け大敗を喫しました。
それでも織田信長は幸運でした。この戦いからわずか五ヵ月後、上杉謙信は急死してしまうからです。

羽柴秀吉は、柴田勝家とそりがあわず、軍律違反を犯して戦線を勝手に離脱しています。
その一件に激怒した織田信長でしたが、比較的軽い処分に留め、代わりに羽柴秀吉を中国攻めの総大将に任じています。

以後、羽柴秀吉は、中国攻めの拠点として播磨へ進駐。黒田官兵衛は居城である姫路城を秀吉に提供しています。
正式に羽柴秀吉の与力となったのは1580年ですが、
この時期には黒田官兵衛居城を提供するほど羽柴秀吉を見込んでいたことがわかります。

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▸ 別所長治、荒木村重翻意。中国方面侵攻は一旦中止に。

織田家に臣下を誓っていた東播州の三木城の別所長治が叛意。周辺の諸侯と共に毛利氏に寝返ります(三木合戦)。
さらに織田信長から摂津を任されていた荒木村重も反乱(有岡城の戦い)を起こしている。
荒木村重を説得に向かった黒田官兵衛は、幽閉されてしまいます。

中国攻めは一旦中止となり、羽柴秀吉は三木城の包囲網の維持。有岡城攻めに忙殺。
特に三木合戦では、別所方の食料などの補給を断ち切るという包囲戦を行っています。
食料という生命を維持するための手段を絶つというのは惨い手段といえます。
凄惨な少年期を過ごした秀吉ならではの作戦でしょうか。
以後の城攻めでも同様の包囲戦を行っています。
また、城主の切腹を条件に城兵の命の保障し、包囲網を解除するという流れが生まれました。

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▸ 竹中半兵衛病死。

三木合戦の陣中、羽柴秀吉の与力として支え続けていた竹中半兵衛が病死しています。
与力とはいえ、軍師と同等の働きを担っていた半兵衛の死は、秀吉としては大きな痛手といえそうです。
有岡城落城後救出された黒田官兵衛がその任を後継していきます。

なお、竹中半兵衛は、黒田官兵衛という人物を相当買っていたようです。
荒木村重謀反時に消息不明となった黒田官兵衛を疑った織田信長は、人質であった松寿丸(後の黒田長政)を始末するように命じますが、
半兵衛は松寿丸を密かに匿ってその命を救っているからです。

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▸ 宇喜多直家降伏。石山合戦終結と、天下布武への流れは加速する。

1579年、備前・美作を領する宇喜多直家が織田家に降伏。
1580年には、石山合戦が終結。本願寺勢は大坂石山本願寺から退去しています。
世の趨勢は、織田信長でほぼ決まりかけていました。

同盟国徳川家の嫡男、松平信康に武田家との内通があったとして、切腹を命じています。
自家家臣に対しても、佐久間信盛や、林秀貞など重臣を放逐。
織田包囲網が形成された時期には決して行うことはできなかった苛烈な処断を下しています。

・・・・・・・・・・・・・・・・・

*Ⅱ期ー②は、信長包囲網が綻びをみせ、「天下布武」への流れがほぼ確定したといえる時期です。
抵抗勢力は粗方潰され、「天下布武」へ揺ぎ無く大勢は動き出しています。
ここまで地ならしがされていると、信長の意思さえ継承さえしていれば、
別の人物でも「天下布武」を成し遂げることは可能です。
Ⅱ期―③では、その事に気が付いてしまった人物が、「天下人」を目指して動き出します。


この時期の羽柴秀吉は中国攻めの総大将に任命されている。
別所長治の叛意で頓挫しかけますが、包囲網を形成し、補給路を遮断。切腹に追い込み、
備前、美作を領する宇喜多直家を降伏させています。

ただし、織田家全体でみると、その急速な拡大の“ひずみ”が散見されます。

松永弾正。別所長治。荒木村重らが一度は臣下を誓いながらも反旗を翻す。
手取川の戦いでは、柴田勝家と羽柴秀吉の確執があらわになっています。
松平信康、佐久間信盛、林秀貞らは苛烈な処分が下されています。

織田信長の革新的な手法や苛烈な処分に馴染めない者、
実力主義での登用故に、家臣同士の確執がみられ、統制は緩んでいます。
こうしてみると、“本能寺の変”は起こるべくして起こったといえそうですよね。
仮に明智光秀による“本能寺の変”が実行されなかったとしても、
別の者が第二の“本能寺の変”を引き起こしたであろうと推察されます。


この時期の「秀吉戦記」候補といいますと・・・・・・、
柴田勝家との確執が露になる手取川の戦いあたりが、上杉家という実装済み勢力との対決だけに候補になりえるでしょうか。
ただ、秀吉の出世物語を描くのが「秀吉戦記」とすると、適切なダンジョンではない気はしますよね。

一度は戦線離脱した秀吉ではあったが、上杉家の猛攻で惨敗した織田家を救うべく戦線復帰、
織田家諸将を救出しつつ、反撃体勢を整え、上杉謙信を討つといった独自の味付けにすればあるいは――。

史実の秀吉の活躍にしぼれば、三木合戦。ただ包囲戦は戦闘主体のゲームの題材としては地味すぎるので、
こちらなら有岡城の戦いとワンセットで官兵衛救出を盛り込むとかになりそうですね。


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[ 2012/01/06 18:45 ] 豊臣秀吉 | TB(0) | CM(2)

「豊臣秀吉」の生涯を振り返る!(Ⅱ期ー①)

*この時期は「木下秀吉」は、織田信長の手足となって活動しています。
全体像が捉えやすいかと考え、「織田信長」中心の記述にしています。

 【Ⅱ期ー①】  上洛戦~近江三郡拝領まで

1568年(31歳) 織田信長、足利義昭を庇護し上洛を目指す。
1568年(31歳) 観音寺城の戦い(六角氏攻め)
1568年(31歳) 織田信長、畿内平定。足利義昭15代征夷大将軍に就任する。
1570年(33歳) 織田信長、足利義昭との対立が深刻化する。
1570年(33歳) 金ヶ崎の退き口。姉川の戦い。
1570年(33歳) 石山合戦、長島一向一揆(本願寺との衝突)
1571年(33歳) 比叡山焼き討ち。
1573年(36歳) 槇島城の戦い(足利幕府滅亡)
1573年(36歳) 一乗谷城の戦い(朝倉家滅亡) 小谷城の戦い(浅井家滅亡)
1573年(36歳) 木下秀吉、浅井氏の旧領江北三郡を拝領。木下>羽柴改姓。


▸ 織田信長の上洛
 
「織田信長」は、庇護を求めてきた「足利義昭」に応じ、上洛を開始する。
「天下布部」を目指すが大義名分のない「織田信長」と、「幕府再興」を目指すが軍事力を持たない「足利義昭」
お互いの思惑が一致した格好。木下秀吉もで上洛戦(観音寺の戦いなど)に参加している。

織田信長は、京の三好三人衆を追い出した。松永久秀は臣従を誓う。
唯一抵抗していた池田勝正を降伏に追い込む。
またたく間に「畿内」を平定すると、「足利義昭」は15代征夷大将軍に就任している。
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▸ 織田信長、足利義昭との対立が深刻化する。


足利義昭は、織田信長を父と崇めるほど感謝したが、その関係は長くは続かなかった。
傀儡を良しとせずあくまでも将軍たろうとした「足利義昭」と、
自身による天下布部を望む「織田信長」の対立は決定的だった。
「足利義昭」は、自身には軍事力はないものの、将軍の権威を活用し、
宗教勢力、他諸侯を誘導、対「織田信長」包囲網を形成し、織田信長を苦しめた。
浅井家の離反の理由も時期的に見るに、同盟国朝倉への侵攻だけでなく、
足利義昭も一枚噛んでいたと考えるのが自然でしょうか。

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▸ 金ヶ崎の退き口

織田信長が朝倉義景討伐を目指し、徳川家康、木下秀吉らを率い敦賀に進軍した。
越前に攻め込むという段階に差し掛かった時、同盟国、浅井の離反の一方が届く。
優勢状況からから一転、朝倉と浅井らに挟撃される形となる、
信長は「木下秀吉」「池田勝正」や「明智光秀」を殿(しんがり)として任命、退却を開始する。
戦国時代でも有名な撤退戦の一つとしてあげられる。
「木下秀吉」らの奮戦、朝倉・浅井の緩慢な動きにも助けられ「織田信長」ら諸将は京都へ落ち延びる。
殿を成し遂げた「木下秀吉」は、調略家の印象から脱皮、一角の武将として認知される。
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▸ 宗教勢力との対立

当時の宗教勢力は武装し、並の大名と相応の武力を持っていた。
延暦寺は、朝倉・浅井に味方し、石山本願寺は正面切って織田信長に敵対しました。
天下布部のためには、宗教も統制に置くことを視野に入れていた織田信長は、
長島一向一揆では、織田信興や、氏家卜全など有力武将を失うなど甚大な被害を受けていたこともあり、
焼き討ちや、虐殺など苛烈な処置を行いました。
現代の価値観ではありえない処置ですが、宗教勢力の武装解体は、
そこまでしなければ、達することはできなかったのかもしれない。
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▸ 織田信長、足利義昭を追放。朝倉家、浅井家を滅亡させる。

・金ヶ崎の退き口後、織田信長と徳川家康の同盟軍は、姉川の戦いで、朝倉・浅井家を破る。
信長包囲網の盟主「武田信玄」が立つ、足利義昭も呼応して挙兵するも、
「武田信玄」遠征中に病死。足利義昭は和睦する。しかし、再び挙兵すると、「織田信長」から追放される。
同年、「一乗谷城の戦い」で、朝倉家は滅亡。「小谷城の戦い」では、浅井家が滅亡している。
木下秀吉は、浅井・朝倉との戦いに大功をあげている。

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▸ 木下秀吉、浅井氏の旧領江北三郡を拝領

「浅井家」滅亡後は旧領の内北三郡を拝領し、大名格に。木下姓から、羽柴姓に改姓しています。
三郡の中心である「長浜城」は、秀吉の「城下町」経営の基礎となっている。
「鳳凰の章」追加要素の「城下町」とかけている部分はあるのやもですね。
この時期に福島正則、加藤清正、石田三成などの人材を子飼いの武将として登用している。

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*この時期で、「木下秀吉」は一角の武将として活躍しています。
その功績から、近江三郡を与えられ、大名と同格の武将となっています。
自領「今浜」を「長浜」へ地名変更。「木下」姓から「羽柴」姓へ改姓しています。
心機一転、さらなる飛躍への想いの現れでしょうか。

*「秀吉戦記」候補となる合戦は「金ヶ崎の退き口」が有力候補か。
退却戦という燃える展開。明智光秀、池田勝正、徳川家康辺りとの共闘もできます。
ただ、独眼竜の野望が、人取橋>小田原>関ヶ原と超展開だっただけに、
オールカットしかねないですよね・・・・・・。

Ⅱ期-②へ続く。

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[ 2011/12/28 07:04 ] 豊臣秀吉 | TB(0) | CM(0)

「豊臣秀吉」の生涯を振り返る!(Ⅰ期)

「秀吉戦記」の主役!「豊臣秀吉」

極めて低い身分からスタートし、天下人となりました。サクセスストーリーの主人公としては最適な人物です。
波乱に満ちた62年の生涯をⅠ~Ⅳ期に分けて振り返ってみます!

一通り ブログなり、本見たのですが、書いてる人によって内容もまちまちだったんで、大まかな流れがわかれば程度に、自分なりの解釈を軸に要点だけ掻い摘んで記載しております。

「独眼竜の野望」のように 史実を無視した超展開だったら簡便な!

今回はⅠ期です。

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 【Ⅰ期】 生誕~織田家仕官~美濃奪取まで。

Ⅰ期前半 誕生~織田家仕官。

1537年(01歳) 尾張中村にて生まれる。
1554年(17歳) 織田信長に小物として仕官。
1560年(23歳) 桶狭間の戦い
1561年(24歳) 浅野長勝の養女おね(高台院)と結婚。
1563年(26歳) 織田信長、松平家康と同盟を結ぶ(清洲同盟)→美濃侵攻を意識した同盟。


▸1537年~1553年 「出自」を含め、謎に包まれている少年時代。

秀吉の出自に関しては、父・木下弥右衛門は足軽(鉄砲足軽?)から農民、
さらにはその下の階級ではなかったかとも言われており、確定していないが、少なくとも下層階級の出身であった。
wikipedia「豊臣秀吉」より。

織田家に仕えるまでの経歴は、諸説入り乱れはっきりしたことはわかっていません。
のちに秀吉はいくつか自身の伝記を書かせていますが、それによっても素性なり、織田家仕官までの流れは異なっています。
つまり出自~少年時代については、本人からすれば黒歴史。語りたくはなかったようですね。

織田家仕官前に、今川家、松下嘉兵衛(之綱)の元で奉公していたのは、
後に恩を返すためか、幕下に組み入れているため明らかではあるようです。
wikipedia「松下之綱」では武芸・学問・兵法などを彼に教えたとみられる。とありますが、
素性のはっきりしない者をそこまでの待遇を与えるのはよほどなことですし、
その環境を捨てて出奔するとすれば不自然ですよね。優しい言葉を一言二言かけられた程度かもしれません。
何気ない優しさが印象に残るほど、凄惨な日々を過ごしたのでしょう。
この時期の苦々しい想いが天下人となりえたの原動力かもしれません。


▸1560年(23歳) 桶狭間の戦い

2万5千といわれる大軍を引き連れて尾張に侵攻した駿河の戦国大名である今川氏真・今川義元に対し、
尾張の大名・織田信長が10分の1程とも言われる軍勢で本陣を強襲し、今川義元を討ち取って今川軍を退却させた、
日本の歴史上最も華々しい逆転劇と言われる非常に有名な戦いである。
東海道に君臨した今川氏はこの戦いを契機に没落し、
逆に勝利した織田氏はこれ以降畿内の制圧に向かって急成長していったことで戦国時代の重要な転機となった。
wikipedia「桶狭間の戦い」より

「秀吉戦記」にて実装が予定されています。
織田家の命運を握る戦いで、戦国時代を通しても重要な合戦ではあるものの、資料上、秀吉の名はありません。
のちの天下人だけに参加していれば何かしら言及されると考えるのが自然です。
触れられていない点をみるに、この当時はまだまだ小間使い程度だったのでしょう。
戦闘に参加したのかさえ疑われます。

Ⅰ期前半は、織田家に仕官し始めたわずか数年という時期です。適切なダンジョンの候補がありません。
「桶狭間の戦い」は、「柴田勝家」「前田利家」「蜂須賀小六」辺りが参戦している。
「松下嘉兵衛」との邂逅 松平元康(若き日の家康)等、ゲームに取り込みやすいテーマではあります。
これといった「ダンジョン」の候補がなかったため、「秀吉」にゆかりのある人物が出揃う「桶狭間の戦い」を採用したのが真相でしょうか。

・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・

Ⅰ期後半 一級資料にも秀吉の名が出始めた時期。

1565年(28歳) 「木下藤吉郎秀吉」の名が書状などの史料で現れ始める。 「坪内文書」
1565年(28歳) 蜂須賀小六が木下藤吉郎の与力となる。
1566年(29歳) 墨俣一夜砦を築く。
1567年(30歳) 安藤守就、氏家ト全、稲葉一鉄の西美濃三人衆の誘降に成功。
1567年(30歳) 織田信長。斎藤龍興を破り、美濃を領する。
1567年(30歳) 竹中半兵衛が木下秀吉の与力になる。
1568年(31歳) 信長の上洛戦に従軍。


▸1565年(28歳) 「木下藤吉郎秀吉」の名が書状などの一級史料で確認され始める。

「坪内文書」永禄8(1565)年11月2日付で木下秀吉へ「知行充行状」が送られていることが確認されています。
この時期にはすでに、小物のような身分から引き上げられ、知行を拝領するような身分にあった事がわかります。

2年後である1567年には、織田信長が、斎藤龍興を敗走させ、美濃を織田領にしています。
同年「木下秀吉」は、稲葉山城乗っ取り事件で時の人であった「竹中半兵衛」を与力にすることを許されています。
高名な武将を与力につけることを許された背景には、墨俣砦の建設。西美濃三人衆の調略等の活動があり、
美濃侵攻に対しての役割は大きいと、織田信長から認められた証明と言えるのかもしれません。

この時期は武将というよりも、「調略家」としての活躍が目立ちます。急速な昇進を妬む同僚は多かったのでしょう。
特に血を流して功名を得るんだ!といった武断派からは理解されにくい存在であったはずです。
批判や妬みの声を撥ね退ける意味でも、武将としても実績を残したいところ。
そういった意味でも戦術・戦略に長けた「竹中半兵衛」の加入は大きかったのかもしれません。
Ⅱ期は、織田信長の上洛戦へ従軍するところからです。武将としても次第に名を馳せていきます。

Ⅱ期へ続く。


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[ 2011/12/21 01:18 ] 豊臣秀吉 | TB(0) | CM(0)





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